エッセイ「10年目の携帯電話」
40歳前後だろうか。スーツ姿がよく似合い、ほんのり酔った横顔が美しい。 東京・下北沢駅のホー ムで、隣に立っていたその女性 が、体を折るようにして私の手元 に顔を寄せてきた。
「あー、それ懐かしいなあ。 持っていいですか。 重いけど、最初は軽く感じたのよね」
先日のことだ。コミュニケーションの小道具になったのは、私の携帯電話である。 95年夏に買って以来、約10年間、使い続けるケータイである。
厚さ5センチ。手のひらからはみ出る。当時は7万円近くした高級品だが、今では「これ、トランシーバー?」と揶揄される。 電話子機より大きく、携帯しがたい
ケータイ。メールも、カメラも当然なし。
あれはケータイを買った2、3 年後だっただろうか、ある日、知らない女性から電話があった。 電波とか占有率といった言葉を使いつつ彼女が語る、その電話の趣旨は、要するに「新機種にしませんか」であった。 私が消えゆくものたちを棄景と名づけ撮影する写真家だから、という理由以前に、高価なものを2、3年で取り換えるのはおかしい、と思っていたので機種変換はお断りした。
こうして、初期のデジタル携帯である私の「N」は、すごい勢いで進化する世間の携帯を尻目に、 働き続けたのである。そのうち、近所の駅前に携帯電話会社のショップができた。
最初にバッテリー交換に訪れた とき、若い店長は、「壊れる前に換えちゃうのが結局、一番合理的 です」と笑った。
「何でもどんどん新しいものに換えるのは、理にあわないのでは」と反論した私。 その姿は30代にして、消費社会に逆らう頑固オヤジであった。
ケータイのほうは頑固というより頑丈で、一向に壊れない。落とされても踏まれても、故障ひとつしなかった。
私は店に行く度に、部品の在庫も少ない古い機種にこだわっている変な客と見られているんだろう なあ、と思った。中には、そんな私に対して親切な店員もいた。私はうれしくて、名札で名前を覚えた。だが、次に来て捜すと、必ず転職して店にいないのであった。 なんだ、この回転の速さって、まるで機種変更じゃないか。
私には、電話をめぐる小学生時代の淡い思い出がある。
30年前ませた子供だった私は ある日、好きな女の子に「夕方こっそり電話するから」と、約束をした。ところが家に帰ると、黒電話が、急な来客で使えなくなったのである。あわてて町外れの赤電話まで走って行ったが、肝心な10 円玉を忘れてしまった。
電話をあきらめ、帰りかけたそのとき、うっとりするほど美しい夕陽が目の前に広がり始めた。私は感動して、日没までその夕陽に見入っていた。
翌日学校で彼女に謝ると、その女の子もまた私から電話が来ないいらだちも忘れるほどに、自宅の窓から同じ夕陽に見とれていたというのだった。
この出来事は私に、「気持ちは (電話しなくても)心で通じるものなんだ」という教訓を与えた。 もちろんその後の30年間に、「気持ちは(電話して)言葉にしな いと通じないんだ」という教訓 も多く受け取ることになるのだが。
昨年春。 私のケータイはついに液晶の画面が一切灯らなくなっ た。修理の部品はもうないとい う。「今度という今度は機種変更してくださいますね」。7代目という店長に懇願されて、私は仕方ないなと思った。
とその途端、嘘のような話だが、その店長の前で最後の命の焔を灯した。液晶画面がポッと 点灯したのである。やつは自分で治ってみせた。生命力を振り絞っ たのである。店長はしぶしぶ引き下がった。
と、こんな具合でわたしのケータイは今でも生きている。
最近は、駅のホームでの出来事のように、あまりにも古いケータ イの姿に、珍しがったり、懐かしがったりして、町中で思わず声をかけてくる人が多い。 コミュニケーションの道具である携帯電話が、こんな形で、見ず知らずの人とのコミュニケーションを取り持つというのは、変な話ではある が、なかなかいい話じゃあないで しょうか。
丸田 祥三 写真家
64年、東京都生まれ。映画会社 勤務後、独立。 写真集『棄景廃墟への旅』で日本写真協会新人賞。最新作に『棄景/origin』。
(朝日新聞夕刊)