無理解と対峙し続け…
無理解と対峙し続ける、ということ
出典元:「表現する仕事がしたい!」岩波書店編集部編 岩波ジュニア新書
初めてシャッターを切ったとき
初めてシャッターを切ったのは五歳の頃です。頻繁に撮るようになったのは小学校にあがってすぐのことでした。新宿の生家の周りが、都電の廃止や新宿通りの拡張工事で変わりはじめたため、廃屋や使われなくなった線路など、当時は誰も一瞥もくれないようなものばかりを探しだし、懸命にシャッターを切り続けたものでした。
物心のついた頃にはもう撮っていた、ということになります。どうして棄て去られるものに関心を寄せたか、うまく説明できません。
プロになった今も、この幼少の頃に撮った写真を時折仕事に使うことがあります。ミュージシャン・くるりのCD『街』に載せた街の写真は、中学二年生の時に撮ったものですし、雑誌『東京人』(二〇〇二年二月号)の表紙に使った蒸気機関車は、小学五年生の時の撮影です。
「世界中どこを探したって貴方のような写真家はいない」と、仕事関係の皆さんからよく笑われます。
撮るものがたくさんあった時代
私が小・中学生時代を過ごしたのは、一九七〇年代です。廃止寸前のローカル線、古びた建造物、戦争遺跡など、撮るものはたくさんありました。ネットのない当時、場所を探すことは難儀でしたが、小学生のころから東京都庁と交通局、解体業者などを訪ね、都電の廃線で、歴史的建造物の廃屋の場所などを懸命に調べたものです(子供だったからこそ、どこもガードが緩く、門外不出の貴重な資料等も容易に見ることができたのでした)。
ですが、写真を取るうえで時おり気の重くなる、一番大変な苦労がありました。それは、撮影の許可を撮るときです。「どうしてこんなものを撮りたいの?」不快そうな顔で詰問してくる大人を説得しなければならなかったのです。当時は戦争が終わって三十年を経た頃でもありました。
瓦礫のなかに立ち尽くしていた人たちが、それでも懸命に前に進み、三十年がかりで、世界の大国に迫る発展を遂げた。多くの大人が、そう自負していた時期です。そんなタイミングで、日本のもっとも惨めだった時代の遺物を子どもが記録したい、というのは、世の大人にとってもまったく受け入れがたいものだったでしょう。
人心すら荒廃しきっていた終戦直後、廃屋や廃車で雨露をしのいだことのある人にとって、廃墟的なものは耐貧時代の孤独感、屈辱感をも呼び覚ます、不愉快なものだったのでした。そのような方が目指す廃墟や廃車の持ち主、管理者だったりする時には、本当に往生させられたものでした。古い廃電車を目当てに鉄道の車庫に行っても、年配の責任者の方から「新型車なら撮ってもよいが、放置された電車は撮っちゃダメだ」などと言い渡されました。
つまり「(戦後復興や高度経済成長時代のシンボルである)新しいものに魅かれなければ、前向きではない。子供らしさが感じられない。だから子どもの取り組みとして、認めることはできない」、そんな今では考えられないような理由での拒絶だったのです。こういう主旨のことをキツく言い渡されたことは、100回以上あったと思います。
そんな時、私はきまって自分なりに考えた、懸命な反論を試みたものでした。「豊かになったばかりの人に、ちょっと前の貧しかった時代の話をしたら、きっと嫌な顔をされるのは当然のことだと思っています。でも何十年も経って、豊かなことが当然になったら、やっぱり過去をキチンと捉えかえそう、という人が増えてくると思います。私のこういう写真を”よくぞ撮っておいてくれた”と言ってくださる方がかならず現れると思うんです」
信じて頂けないかもしれませんが、この論はそのころもう、なぜか私の内にあった、直感めいたものだったとしか言いようがありません。特になんの確証もなかったのですが、でも、それに関し、当時の私は不思議と絶対的な自信をもっていたのでした。「何を言っているのかさっぱりわからない。なんだこの子供は…」と、そんなふうに怪訝な顔をされることがほとんどでした。が、向こうも根負けし、撮らせてくれたりしたものです。
しかし世間の無理解というのは凄まじいものでした。私は周囲から、「棄てられるものには価値などはない(だからこそ棄てられるのだ)。そんなもの撮るのは高価なフィルムの無駄使いだろう」と、これも何百回言われたかしれません。そんなことを言う人々の傍らで、庶民が買い出し列車として乗った国鉄の戦時型鉄道車輛、調布市の陸軍航空隊の諸施設、空襲で黒く焼けた電信柱といった貴重な遺品たちが、ほとんど誰からも一瞥もくれられぬまま、どんどん惜しげもなく捨てられて行ったのでした。そして、憑かれたようにそれらをカメラに収め続ける私は、無意味なことにこだわる変人だ、と友人たちから一貫して、変人扱いされ通しでした。
自分にとっての”表現”
自分にとって、表現するということは、おそらく ”無理解と対峙し続ける”ということなのだろう…。中学に上がる頃にはもう、私はそういったことを痛感していました。
私の父はプロの棋士で、地方への巡業もよくありましたので、そこに同行し、現地で別行動をとり、よく撮影に行ったものです。子ども時代に北海道や九州でも撮影ができたのは、そんな家庭環境のお陰でもありました。
ただ父は、写真を「純粋表現とは認めていない」と私に言ったものでした。理由はこのようなものでした。
「プロの指す将棋に”待った”は無い。やり直しはきかない。絶対後には引けない。そういう緊張が人間にいい仕事をさせるものだ。何度もシャッターを切り、そのなかから良い一枚を選ぶ、という写真の世界は、どうも純粋な表現とは思えないね」
いらい、私は廃墟一ケ所につき一枚しかシャッターを切らず、それでそこを表現しようと努めました。父に、写真も高尚な表現であると理解してもらえるよう、そのような無茶な頑張りをしたものでした。
フィルムは最初、カラーでも撮りたかったのですが、父から「子どもがカラー写真というのは贅沢だ」と反対され、ほとんど白黒で撮っていました。ところが、ある時、父の知人の作家さんから大変興味深いお話を伺って、白黒写真への関心を深めることになったのでした。その方は戦時中の病が原因で、色が認識できなくなりました。
「私は色が認識できなくなった今のほうが、真実がよく見える気がしますね。人は色に惑うものなんですよ。街の風景がカラフルになると、それだけで社会全体が華やかに、豊かになったと勘違いしてしまう人って、私の周りにも非常に多いですね。でも色の判らない私には、戦後の街はどんどん寒々しくなって行くようにしか感じられない…」
このお話を伺って以降、私は白黒フィルムで周囲の世界を撮ることが大好きになりました。たしかに廃墟を写した写真など、色を排したほうが、時間の流れの冷徹さ、傷つきながらも倒れることもなく佇み続ける廃墟の存在感、がより伝わるように思えたものでした。
その後も、高校、大学に通いつつ、私は各地の廃墟、廃線を撮り歩く旅をつづけました。そして大学卒業と同時に、ある映画会社に就職し、テレビドラマの企画をする部署に配属されました。一九八〇年代後半のことです。
すぐに写真家にならず、いったん就職を選んだのは、考え抜いた末のことです。
棄てられるものを撮る行為は、生活の糧を得る、という部分からは切り離して、温存しておきたい。一番大切なものは職業にせず、二番目に好きな映画を職業にしよう。そんな気持ちからであったと記憶しております。
映画会社のテレビ製作部門もプロの表現者の結集する場です。きっとよい刺激をもらえるに違いない、と私は楽しみにしていました。が、そこで思いがけず、プロの表現者にすっかり幻滅させられる、数多くの出来事に突き当たってしまったのでした。
私の入った会社では、監督さんや脚本家など、秀でた才能の持ち主ほど、何年も作品づくりの機会に恵まれず、いわゆる干された状態で、どう考えてもさして優れているとは思えないタレントやライターばかり重用される、というノリだったのです。どうして優れた表現者ほど隅に追いやられているのだろう、と私は不思議でなりませんでした。
「これからの時代、他人に嫉妬されない程度の、適当に可愛げのあるヤツのほうが伸びていくんだろうな」とあるテレビ関係者が妙に得意げなそぶりをしながら言っていたものでした。軽佻浮薄さをよしとする八〇年代というこの時の時代状況もよくなかったのかもしれません。が、将棋のように勝敗や優劣が判り難く、評価が人の主観に委ねられる映像表現の世界の難しさを痛感させられたものでした。
社内でキャスティングを担当するプロデューサーのもとに、新人女優がマネージャーと売り込みに来ると、プロデューサーとの間できまってこんな会話が交わされるのでした。
「この娘、演技はできるの?」
「いや、そりゃまだちょっと…。えへへ…」
「そっか。でもまぁ御社とのご縁もあるしね。なんとか起用できるようにしますよ」
当人の実力より、大きな事務所の推しでプロの表現者が誕生し、次々消費されていく。そんなことが日常茶飯事になっていました。
「一九六〇~七〇年代頃までは、こんなことは絶対になかった。ものづくりの現場はもっと緊張感のある場だった」
「これからはもう本当に、素人っぽい人や、薄く軽いこだわりしか持たない人の方が、売れてしまう時代なのかもしれません」
年配の社員たちもそういいながらため息をついていたものでした。
しかし私は二〇代の終わりに会社員を辞めて、フリーの写真家になりました。なぜそんな悪状況下の表現の場で、フリーの表現者になったのか。たしかに悩んだ時期もあったのですが、一方で逆さまの勇気が徐々に湧いてきたのかもしれません。
そもそも自分にとっての表現は、「無理解と対峙し続ける」ということですので、こういう悲惨な状況だからこそ(終戦直後に瓦礫のなかから歩みを始めた人々のように)むしろ頑張ってみたい、と思い立ってからなのです。 今は物がうち棄てられるだけではなく、人間までもが切り捨てられる世の中になってしまいました。もしかしたら終戦直後より、痛ましい時代になっているのかもしれません。それゆえに撮るもの、捉え、描かなければならないものは、まだまだたくさんあります。
【写真家 丸田祥三】