車谷長吉氏『棄景Ⅱ』論
丸田祥三写真集『棄景II』~飛耳長目
生霊(いきすだま)の漾(ただよ)う光景
文學界編輯部の人から、丸田祥三氏の写真集 「棄景II」(洋泉社)を見せられた時、ある生々しさを感じた。 「棄景」とは「棄てられた風景」、 あるいは「棄てられた光景」の意であろう。 「大阪萬国博覧会・太陽の塔」「旧松尾鉱業職員 住宅」「鹿島海軍航空隊跡(廃屋の兵舎)」 「旧三井田川鉱業所(煙突)」「旧国鉄豊後森機関区跡」「いすゞBXD30(道端に放置されたボンネット・バス)」「三菱ジープ3(夏草の中の残骸)」「寺泊町立山ノ脇小学校跡(水田の中に立つ二宮尊徳像)」等々。 いずれも人の歴史によって棄てられた廃物が、日本の自然を背景に写し出されていた。
これらの廃物たちは、元をただせば、自然の中に自然物として存在していたものである。それを人が、人の力によって自然の中から取り出し、加工し、ある時期人のために利用し、併し(しかし)歴史の次ぎ次ぎになりゆく勢いに押されて、打ち捨てたものである。物たちは、棄てられるとによって廃れ物になったのである。さらにその廃物どもが、自然の中に置き去りにされることによって、自然もまた血を流している。
併しこの写真集においては、あくまで廃物に 照準が合わされているのであって、これらの廃物なしには、この「棄景II」にみなぎる静寂は成立しない。言うなれば死の静寂であり、「廃物」 は「死物」である。丸田氏は白黒写真が持つ特性によって、その死の静寂を写し出したのである。
今日では色つき写真が普通であるが、併し本来「写真」というものの本質は白黒写真にある。 色つき写真をふくめて、写真の本質は対象のある瞬間の影を写し出すものであり、その写された影は、死の影である。たとえ対象がまだ生きている人であっても、写された瞬間、すべての 被写体は実は死の影になるのである。たとえば 自然の光によって色褪せた、古いポスターの女優の顔などを見れば、それはその女の死の影で あることがよく見える。この写真の本質を、丸田氏は逆手に取って、これらの「死物」たちを 写し出した。なぜ、そうしたか。恐らく氏はこれらの「棄景」の中に「詩」を発見したのであろう。「詩」は「死」であり「志」である。
だが、これらの死物どもは、実は死物ではない。まだ生きている。人に棄てられることによって、機能としては死物化したが、「物」としてはいまだ生きている。「物」の生霊が、これ らの廃物の中に、じっと息をひそめている。丸田氏はその生霊の姿を写し出したのであろう。
私がこの写真集を見せられた瞬間に感じた、ある生々しさの正体は、血を流している自然の劇痛のみならず、死してなお生きているこれら 「物」たちの生霊のうめきではなかったか。
去年の夏、私は畏友高山芳樹氏と金沢に遊んだ。氏は高等学校三年間を、金沢に過ごした人である。この北国の古都は、戦災に遭うことが なかったので、藩政時代の古い家並みが、まだ 色濃く残った町であり、近江町市場から堤町、 南町を経て、香林坊へ抜ける通りが、今日では 一番の目抜き通りである。南町のあたりを歩いている時、高山氏が「あっ。」と声を出した。 何の変哲もないビルに「混元丹」という看板が 掛かっていた。
氏によれば、氏の高等学校時分には、そこに藩政時代以来の薬種問屋・中屋の豪壮な木造店舗が商いを営んでおり、あたりを圧する威を放っていたのに、というのである。 無論、こういうことは、当節ではよくあることである。
が、私たちはそれから暫くして、その中屋の かつては「萬両普請」とも謳われた建物に出逢った。南町のすぐ横手に旧士族町の長土塀の家並みがあり、そこを抜けたところの小公園に、 中屋は移築されていたのである。高山氏が「何だ、これは。まるではらわたが抜かれた姿だな。」と言うた。氏の記憶には、まだ中屋が南町で殷賑をきわめていた時分の姿がある。けれ ども、目の前のそれは、まさしく中身を抜かれた「死の家」であった。 はらわたの方は、ビルに「混元丹」という看板を掲げて生きているのである。いや、移築された中屋は、藩政時代の 代表的な金沢商家の造りを示す 「文化財」として保存されているのであるから、丸ッ切りの 「廃物」とは言えないかも知れないが、併しそれはも早、命を抜かれた死物であった。
同じ死物ではあっても、 丸田氏の「棄景II」に写し出された死物たちは、まだ生きているのである。死してなお、生霊がじっと息をひそめた廃物たちである。「死ぬ」というのは、どういうことか。
丸田氏は近代の発明物である写真機によって、「物」の生霊の姿を写し出した。けれども、恐らくは近代以前にも、「棄景」と称ばれるような光景は随所に出現していたであろう。たとえば、戦乱の世に焼けただれ、くずれ落ちた城である。私の古里播州は「播磨風土記」に記された通り、古代から戦乱の絶えなかった地である。 中世には赤松氏、山名氏等が跳梁をきわめ、戦国時代末期には羽柴秀吉の播磨鏖(みなごろし)攻めがあった。そういう土地柄であるので、いまでもその 時代の城趾が数多く残っている。赤松氏の竹田城、山中鹿之助の上月城、黒田官兵衛孝高の妻鹿(めが)城、等々。いずれも、いまでは苔むした石垣だけが残る古城趾であり、桜の木などが植えられて、春は花見の客たちが時を楽しんでいる。
併し落城当時は死屍累々の血なまぐささであったであろうし、その後は廃物となった焼け城 が、「棄景」として、ある生々しい異臭を放っていたであろう。が、いまでは城趾に立っても、 早そういう生々しさはかけらも感じられない。恐らくは長くあたりに漾うていた生霊たちもどこかへ立ち去ってしまったのであろう。
子供の頃、私は母からこんなことを聞かされたことがある。 「あのな、ええことおせちゃる。 成佛、 言うて、人は死んだら佛に成るんやで。 初七日、四十九日、一周忌、三回忌、十三回忌、 三十三回忌、五十回忌。 後生を弔うんや。」私方は在所の古い農家であり、一向宗(浄土真宗) 門徒であるので、ほとんど年々歳々のごとく、家で先祖たちを祀る法事が営まれた。併し 五十回忌が過ぎたら、どうなるのか、とたずねると、母は唇を一つ舐めたあと、声をひそめて 「天に昇って、神さんになるんや。」と言うた。 私は驚いた。が、この話は佛教が異国から入って来たのちの、日本古来の神との神佛習合であろう。つまり、成佛したのち、五十年を経て、 神上りすると言うのである。
して見れば、丸田氏の「棄景Ⅱ」に現れた死物たちは、まだ弔いも行なわれず、もとより後日の供養もなく、血みどろの自然の中に、その生霊がむごたらしくうめいているのである。恐らくは死に腐れどころか、生き腐れになることもなく、うめき続けるであろう。金沢の薬種問屋・中屋は、はらわただけが抜き取られて、ビルの中に生き続けているが、併し「文化財」として保存されているその脱け殻は、すでに完璧に死物化していた。 ご神体の抜き取られた神棚のようなものである。愛知県犬山の「明治村」 などにも、恐らくは似よりの、命を抜き取られた「文化財」が並んでいるのであろう。観光地になるということは、その地の霊が息絶えるということでもある。金沢の長土塀が続く旧士族町も、そのようなところであった。二つながらに、これが、歴史によって棄てられた「死物」 たちが告げる、現代の精神風景であろう。